飯島商店の登録有形文化財

店舗棟の紹介

飯島商店の店舗棟は大正13年の木造建築です。外壁に「石目地」と呼ばれる表面をざらざらに仕上げる壁塗りをしているため、まるで石造りの建物のように見えます。
当時は洋風文化が本格的に日本に流入し始めた頃でして、盛んに建築にも洋風なものが取り入れられていました。ですが、まだまだ建築工法の世界では洋式建築の知識は一般的ではなく、日本古来の木造様式が主流でした。
そこで、得意とする木造建築の知識を駆使して、洋風建築を実現しようとする和洋折衷の独自技術が発達したのです。石目地造りの店舗棟は、和洋折衷の時代だった大正モダニズムをよく表しています。

外壁の石目地を拡大したものです。
小さな玉砂利を混ぜたモルタルを壁に塗り、水を含んだ筆でモルタル部分を洗い落として玉砂利を浮き上がらせる工法(洗い出し)により、まるで石の表面のような造形に仕上げています。

外壁の石目地の様子

外壁の石目地の様子

建物の外観装飾は当時流行していたアールヌーヴォー・アールデコに影響を受けたものとなっています。

店舗棟上部の櫛形飾り

店舗棟上部の櫛形飾り

屋根裏から見ると木造であることがよく分かります。屋根組みはキングポストトラスという構造でして、明治から大正期の近代建築によく見られます。

店舗棟の屋根裏

店舗棟の屋根裏

新築して間もない大正時代の店舗棟の写真です。
本社ビルとして建てられたものでしたので、当時は今のようなお店ではありませんでした。入口に大八車があることからも分かりますが、一階は卸売り用のみすゞ飴の出荷場でした。

大正時代

新築当時の店舗棟

建造当時、製糸業を中核とした国の殖産興業政策により、全国有数の養蚕(ようさん)・蚕種(蚕種)の拠点だった上田は空前の活況に沸いていました。 好景気に乗じて数多くの洒落た洋風木造建築が上田に建てられましたが、その中でも飯島商店のアールデコ調洋館の3階建ては、目を見張るハイカラなものとして評判でした。
しかし昭和中期になり、道路拡幅と同時に進められた商店街近代化事業によって、当時の美しい建物は惜しくも次々に取り壊されてしまいました。飯島商店の店舗は上田駅前に唯一残った、大正モダニズムを今に伝える貴重な建築遺産です。

昭和31年の店舗棟の様子です。曳家(ひきや:建物を持ち上げ、移動する工法)する前の姿と周囲の町並みを見ることができます。
このころになると1階部分に直売所(写真手前の大きく開いたショーウインドウのところ)ができていましたが、広さは現在の3分の1程度でした。残りの3分の2は相変わらず、みすゞ飴の出荷場と事務のスペースとして使用していました。

昭和31年の店舗棟

昭和31年の店舗棟

昭和40年代の道路拡幅により、当時の店舗棟の位置から3mほど曳家工事している時の写真です。
ちなみに当時、古い店舗を壊して立て直すと商店街近代化事業の補助金による支援が受けられましたので、曳家してまで建物を守った上田の商店はほとんどありませんでした。この時、数多くの上田の歴史的建造物が失われたのです。

店舗棟を曳家している様子

店舗棟を曳家している様子

道路拡幅が終わった直後の店舗棟の様子です。商店街近代化事業によりアーケードが設置され(現在は撤去)、周囲の様子も一変しています。
なお、曳家後の間口が1m狭くなってしまったため、やむなく建物の左を1mほど切らざるを得ませんでした。左右アンバランスな現在の店舗棟の姿になったのは、このためです。

昭和40年代

昭和40年代の写真

昭和50年、1階部分を現在のように改装し、広いお客様スペースを確保した店舗空間となりました。 当時の社長だった飯島春三は、自身が青春時代に体験した大正モダンの美を再現することを目指し、内装はもちろんのこと照明器具やインテリアまで一切の妥協することなく店づくりしました。改装工事における春三の指示は細部に至るまで徹底しており、飯島商店店舗棟は言わば春三の美学が結晶した、一つの作品であると言っても過言ではありません。

昭和40年代

昭和50年の改装工事完成記念の写真

店舗案内

事務棟・作業棟(旧繭倉)の紹介

土蔵造りの事務所棟と作業棟は、明治27年に上田倉庫株式会社の蚕繭(さんけん)集積倉庫として建築されました。そして明治21年に信越線上田駅が開通して以降、右肩上がりに増加していた蚕繭出荷の前線基地として活躍しました。明治時代の上田は日本一の蚕種出荷量を記録したこともある養蚕の一大拠点で、日本国の殖産興業を支えていました。蚕都上田の名に相応しく、当時は数十棟の繭倉(まゆぐら)が上田駅前に軒を連ねる威容を誇っていたのです。
明治43年には上田倉庫株式会社が諏訪倉庫株式会社に合併吸収されたのに伴い、所有者は諏訪倉庫へと変わりましたが、引き続き繭倉として使用され続けました。

しかし終戦後は一転して生糸関連産業が急速に衰退し、諏訪倉庫は駅前から撤退。役割を終えた繭倉は昭和30年代から40年代前半にかけて次々と取り壊されて行きました。

飯島商店の西隣、現在はマンションとホテルになっている方角の、昭和40年代に撮影された風景写真です。
立ち並んでいた繭倉はすっかり壊されて、わずかに残された瓦礫の山にその名残を見ることができます。なお、写真右端には「売地」の立て看板が出ているのが分かります。



昭和40年代の更地化した繭倉跡地

昭和40年代の更地化した繭倉跡地

手前の人物が、繭倉の買取と保存を行った、2代目社長の飯島春三です。写真における背景は昭和45年の購入前後の繭倉です。
春三は建築に造詣が深く、店舗棟の内装にも尽力しました。飯島商店の文化財群に見られる独特の大正ロマンの空間作りは、ほぼ春三の手によるものです。

2代目社長、飯島春三

2代目社長、飯島春三

時は折しも高度成長期、「古いもの」よりも「新しいもの」が尊重される世の中でした。この時流に真っ向から逆らい、2代目社長の飯島春三は明治時代の貴重な建築を保存すべく動きました。昭和45年、飯島商店の工場の隣接地にあった2棟の繭倉を諏訪倉庫から購入したのです。
かくして、上田駅前の繭倉は守られました。2棟の繭倉は、飯島商店事務棟・作業棟として現役で使用されている建物であると同時に、蚕都上田の隆盛を極めた当時の駅前風景を今に残す貴重な産業遺産となっています。

屋根の上に煙突が見えますが、これは蚕(かいこ)の繭を乾燥させるための暖房用のものの名残です。養蚕農家から集めた蚕の繭は、繭倉の中で乾燥させていました。このような蚕繭倉庫を生繭倉庫(せいけんそうこ)と言います。
ちなみに、繭倉の壁に多数空いている特徴的な窓は、繭を自然乾燥させるための通風窓です。

煙突

煙突と通風窓

明治37年1月に撮影された、上田駅前に建ち並ぶ繭倉の風景です。
明治大正の文豪である島崎藤村の代表作「破戒」の中で、舞台として登場する『高い白壁造りの倉庫』はこの繭倉です。破戒が公表されたのは明治38年ですので、この写真が主人公の丑松たちが歩いた光景そのものだということになります。
写真の真ん中にある倉が、現在の事務棟になります。両脇の繭倉は昭和中期に壊されてしまい、現存していません。

明治末期の上田駅前風景

明治末期の上田駅前風景

飯島商店が繭倉を購入した直後の写真です。
養蚕産業の衰退とともに使用頻度の下がった繭倉は、手入れもあまりされずに荒れた状態でした。写真に見える足場は、外壁修理の工事のためのものです。
外に見える部分だけではなく、実際には内部も荒れていましたので、修理の手間はかなりのものになりました。

昭和45年、飯島商店が購入後の繭倉

昭和45年、飯島商店が購入後の繭倉

登録有形文化財

名称 建築年代
飯島商店店舗棟 大正13年
飯島商店事務所棟 明治27年
飯島商店作業所棟 明治27年